麻美は、
夫の浩介の洗濯物を畳みながら、
今日もため息をついた。
結婚して5年。
子供はいないけれど、
穏やかで幸せな日々を送っているはずだった。
少なくとも、
麻美はそう思っていた。
異変に気づいたのは、本当に些細なことだった。
いつものように浩介のパンツを手に取った時、
ほんのりと、
今まで嗅いだことのない甘い香りがしたのだ。
柔軟剤の香りではない。
もっとこう、蜜のような、
少しだけ色っぽい香り。
「気のせいかな?」
最初はそう思った。
新しい洗剤を試したのかもしれない。
でも、その香りは数日おきに、
違う種類のパンツから漂ってきた。
時にはフローラル系、
時には柑橘系。
明らかに、
麻美が普段使っているものとは違う。
不安が小さな芽のように、
麻美の心に忍び寄ってきた。
浩介は出張が多い仕事ではない。
飲み会も、月に一度あるかないかだ。
一体、どこでこんな香りがつくのだろう?
ある日、
麻美は浩介の出張用のカバンを整理していた。
もうすぐ次の出張があるのだ。
カバンの底から、
見慣れない小さなポーチが出てきた。
中を開けると、
可愛らしい柄のハンカチと、
使いかけの小さな香水瓶が入っていた。
香水をそっと嗅いでみる。
それは、数日前、浩介のパンツから感じた甘い香りだった。
麻美の心臓は、
音を立てて脈打った。
頭の中が真っ白になる。
まさか、
浩介が浮気…?
その夜、
浩介が帰宅すると、
麻美は平静を装って夕食の準備をした。
食卓を囲みながら、
何気ない会話を心がけた。
でも、心の中は嵐のようだった。
食後、
麻美は意を決して、
カバンから見つけたポーチを浩介の前にそっと置いた。
「これ、何?」
浩介は一瞬、
目を丸くしたが、
すぐに平静を装った。
「ああ、それは…出張の時に使うと思って」
「この香水、あなたのもの?」
「いや、違うよ。誰かの忘れ物じゃないかな」
浩介の目は泳いでいた。
声も少し震えている。
麻美は、
もう何も言えなかった。
彼の嘘はあまりにも明白だった。
その日から、
麻美は浩介の行動を注意深く観察するようになった。
帰りが遅くなる日が増え、
スマートフォンを肌身離さず持ち歩くようになった。
以前は、
麻美に話していた職場の話も、
最近はほとんど聞かなくなった。
決定的な証拠を見つけたのは、
浩介のスマートフォンのロック画面に表示された通知だった。
「〇〇(女性の名前)からメッセージ」。
見慣れない名前だった。
麻美は、もう耐えられなかった。
ある週末、
浩介が「会社の飲み会だ」と言って出かけた後、
麻美は彼の部屋を隅々まで探した。
引き出しの奥から、
ホテルのカードキーが出てきた。
日付は、
浩介が「出張だった」と言っていた日だった。
カードキーを握りしめ、
麻美の心は深く傷ついた。
信じていた夫の裏切り。
楽しかったはずの二人の時間は、
もろくも崩れ去ってしまった。
浩介が帰宅した時、麻美は静かに言った。
「このカードキーは何?」
浩介は顔面蒼白になった。
言い訳をしようとした彼の言葉を遮り、
麻美は淡々と事実を突きつけた。
香水の匂い、
見慣れない女性からのメッセージ、
そしてホテルのカードキー。
浩介は観念したように、
全てを認めた。
職場の後輩の女性と、
数ヶ月前から関係を持っていたという。
麻美の心は、悲しみと怒りでぐちゃぐちゃになった。
涙が溢れて止まらない。
「どうして…?」
絞り出すような麻美の声に、
浩介はただ俯いているだけだった。
その夜、
二人の間にあった静かで穏やかな空気は完全に消え去り、
重苦しい沈黙が部屋を支配した。
数日後、
麻美は家を出た。
浩介との思い出が詰まった部屋には、
もういられなかった。
一人になった部屋で、
麻美は改めて浩介の残していった洗濯物を手に取った。
もう、あの甘い香りはしない。
ただ、洗いざらしの、
いつもの洗剤の匂いがするだけだった。
「パンツの異変は、浮気のサインだったんだ…」
麻美は、
心の中でそう呟いた。
それは、彼女にとって決して忘れられない、
苦い教訓となった。
そして、
いつかこの傷が癒える日が来ることを、
麻美は静かに願った。